日本の食の歴史②

ひだまり内科クリニック 院長 伊藤 公人

米(コメ)と日本人

米(コメ)と日本人

日本人の主食といったら、米(コメ)ですね。日本人は一人あたり1日1合(150グラム)の米を食べていますが、江戸時代には一人1日3合(450グラム)もの米を食べていました。戦国時代の武士は1日5-6合を食べていたとのことです。日本人は米が大好きな民族であるといえます。


日本社会の成り立ちと米とは不可分の関係にあります。日本において米はかつて経済指標であり、人物の評価につながるものであり、租税にもなっていました。


米はジャポニカ種インディカ種に分類され、日本ではジャポニカ種が食されています。

ジャポニカ種の栽培の始まりは紀元前7000年頃で、それが日本に伝わったのが縄文時代後期といわれています。その後、渡来人である弥生人が稲作を急激に広めていきました。

耕地拡大に伴い扶養できる人口が増え、縄文時代は約27万人、稲作が広がった弥生時代は約60万人、さらに古墳時代には約540万と、稲作の普及は日本に「爆発的な人口の増加」をもたらしました。


米はまた、共同体(集落=ムラ)同士の争い事の原因をも生み出し、稲作の普及により余剰生産物が生じたことにより、それを奪い合う共同体同士の争い事や戦争につながっていきました。そして、戦争に勝ち抜いた共同体が原始的形態の国家を形成することになります。


国を治める統治者にとって、米の生産管理を行うことは重要な政治的課題でした。古代の大阪平野の北部は不毛な大湿地帯で、南部は農業用水が確保できない乾燥した土地でした。5世紀はじめ仁徳天皇は大阪平野南部に狭山池などの溜池や堀に守られた古墳や用水路を数多くつくり、北部の湿地帯の水を農業用水として南部まで行き渡るよう大工事をすすめ、それにより大阪平野一体が農地化され、米作の安定供給につながり、人々の朝廷に対する支持が強まりました。この米作管理=政治的権力の構図は現在に至るまで脈々と受け継がれています。


鎌倉時代から戦国時代までは、有力者による土地の奪い合いが続き、米作の効率的な運用等はできない状態が続いていました。戦国時代になり織田信長や豊臣秀吉らにより、田畑の面積を調査する「検地」が行われました。豊臣秀吉による「太閤検地」では、全国の米の獲高を調査し、石高(土地の米の収穫量)による検地帳が作成されて国の経済力を示す基準(「加賀百万石」等)が定まりました。その後江戸幕府は大規模土木工事等により農地を広げ、江戸時代半ばには米の獲高は3.5倍になりました。治水事業はその後も関東地方等で大規模にすすめられ、世界でも指折りの大都市「江戸」の成立に寄与しています。


全国で収穫された米は、海の航路を通り江戸や大阪へ運ばれました。天下の台所と呼ばれた大阪の「堂島米会所」では、日本中の年貢米の値段が定められ、これが日本発の先物取引ともいわれており、米相場が日本人の「商人」としての素養を養ってきたとも言えます。


参考文献:

・“食”で謎解き 日本の歴史 造事務所編 実業之日本社 2016年初版